レイ・ディリンジャーへのインタビュー(Great Wall of Numbers、2018年10月)
ティム・スワンソンによるレイ・ディリンジャーへの取材全文。ホワイトペーパー10周年企画で、コードレビューの技術詳細や浮動小数点発見の経緯が語られる。
この形式(タイプ)のエントリー集約。形式軸で時間を追うと、ビットコイン黎明期のコミュニケーション様式の変遷が見えます。
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レイ・ディリンジャー ↔ サトシ・ナカモト, ハル・フィニー
ティム・スワンソンによるレイ・ディリンジャーへの取材全文。ホワイトペーパー10周年企画で、コードレビューの技術詳細や浮動小数点発見の経緯が語られる。
レイ・ディリンジャー ↔ ハル・フィニー, サトシ・ナカモト
2008年11月にハル・フィニーとビットコインのコードを監査したレイ・ディリンジャーが、信頼される役割のない設計からサトシは詐欺師ではないと確信した理由と、その後のICOの詐欺を語る。
サトシだと名乗り出た3日後の2016年5月5日、約束した証明を何も示さないまま、クレイグ・ライトがサイトの代わりに載せた謝罪文。
クレイグ・ライト ↔ ギャビン・アンドレセン, サトシ・ナカモト
サトシだと公に名乗り出た翌日の2016年5月3日、クレイグ・ライトが載せたブログ記事。証明として一連の記事と、初期ブロックからのビットコインの送金を約束した。
自分がサトシだと公に名乗り出た2016年5月2日に、クレイグ・ライトが載せたブログ記事。証明として示した署名を、OpenSSLで検証する手順を説明している。
ギャビン・アンドレセン ↔ クレイグ・ライト, サトシ・ナカモト
ロンドンでの非公開の署名の場を経て、クレイグ・ライトがサトシだと信じると書いた2016年5月2日のギャビン・アンドレセンのブログ記事。2023年2月の追記を含む。
Gwern ↔ サトシ・ナカモト, ウェイ・ダイ, アダム・バック
サトシが2008年8月にリンクした草稿を、Gwernが探した先の一覧。ダイ、バック、マクスウェルは写しを持たず、フィニーからは返事がなかった。
著者ドミニク・フリスビーに問われ、ダイは答えた。b-moneyをコードにはしなかった。設計が未完成で、クリプトアナーキーに幻滅しており、こうした仕組みが広く使われるとは予想していなかった。
ダイは、ビットコインは金融政策で失敗したと考え、それは一部、自分の落ち度かもしれないと書く。サトシが論文の草稿への意見を求めてきたとき、返事をしなかったからだ。
ビットコインはなぜ遅れたのか。サボは、最大のつまずきは「なぜ」だったと書く。ビットゴールドは1998年にb-moneyと同じ非公開のメーリングリストで生まれ、ナカモトはその欠点を改善した。
ビットコインのルールを変えてほしいと頼まれ、ダイは答えた。ビットコインを作ったのは自分ではなく、サトシは自分の文章を読まずに同じ考えを作り直した。自分もRadeon 5870で採掘を始めた。
bitcoin.orgのFAQ。ビットコインの設計・コイン生成・利益率が縮む理由・送金の基本を説明する。マルミが原案を書き、その後サトシと共に維持した。
ALSの診断から2か月後のフィニーの文章。ALS患者の9割を超える人が人工呼吸器を選ばずに死を選ぶと知って驚き、その時が来たら自分は生きるほうを選びたいと書く。
サトシがbitcoin.orgで公開した、プルーフ・オブ・ワークチェーンによって将軍たちを一つの計画に一致させる、ビザンチン将軍問題の説明。
フィニーによるRPOWのよくある質問。hashcashや電子現金との違い、中央のサーバーがボトルネックではなく欠かせない要素である理由、IBM 4758がありうる唯一の土台である理由。
rpow.netのトップページ。RPOWはhashcashのトークンを順番に再利用できるようにし、IBM 4758の証明で誰でもコードを確かめられる。ニック・サボのビットゴールドの一つの形にもなる。
なぜパズルが要るのかと問う読者に、サボは、発行のアルゴリズムを多くの参加者がビザンチン合意で並行して動かす案を示し、通貨を増やす誘惑の強さも量った。
ビットゴールドの実装に協力を求めたコメントの書き間違いを、サボが直した。正しくは「金の採掘より無駄が多いわけではない」。ビットゴールドは、誰でも調べられる偽造できない監査記録に基づく。
ビットゴールドの束にも、住宅ローンの市場のように偽物が紛れ込まないかと問われ、サボは答えた。強い安全の仕組みで信頼を最小にし、権利の登録簿が公開なので供給は隠せない。
自身のUnenumeratedブログで、ビットゴールドのトランチ設計への批判に返信する中で、ニック・サボがデモ実装への協力を募る。公に応じる者はいなかった。
「Bit gold」の下の最初のコメントは、ビットゴールドとは関係がなかった。税のブログの書き手がサボの論文を引用したと知らせ、サボは礼を言って、価値の測定と税についての記事を示した。
サボがビットゴールドを示す。プルーフ・オブ・ワークで偽造できない高価なビットを作り、時刻の証明を付け、前の答えを次の問題にして連ね、分散した登記簿の中の位置で持ち主を決める。
ダミアン・ドリジェが1995年にハル・フィニーのSSLの挑戦を割った経緯。鍵を見つけたのは、アダム・バックと組んだバイヤーズとヤングより約2時間遅い2番目で、2回目の挑戦は32時間足らずで割れた。
メールの署名に使えるほど小さい、バックのPerlのRSAのプログラムのページ。米国商務省の文書が輸出してはならないと判断し、Tシャツや入れ墨にもなった。
バックが、PerlのRSAのプログラムが短くなっていった版を小さい順に並べる。始まりは1995年3月9日の5行の版で、ハル・フィニーがすぐにサイファーパンクのメーリングリストで仕組みを説明した。
メイは、暗号と国家について考え始めたのを1987年の終わりとする。公開鍵暗号、匿名のデジタル現金、情報の市場が、いまの政府の終わりを意味すると気づいたときだ。
ごく初期の会合でジュード・ミルホンが口にした「ただのサイファーパンクの集まりだ」が、そのまま名前になった。メイがその経緯と、サイバーパンクとの結びつきを書く。
メーリングリストの合言葉「Cypherpunks write code」を、メイは命令ではなく立場をはっきりさせる言葉だと説明し、実際にコードを書く人の少なさも見積もる。
クリッパー・チップに対する標語「Big Brother Inside」は、クリッパーの会合でメイ自身が考え出したものだった。
新しく入った人に、メイは答える。クリッパー・チップは1993年4月16日の発表から数時間、数日で徹底的にこき下ろされ、支持者がいないので議論がない。
メイによるグループの始まりの覚え書き。エリック・ヒューズとの話し合い、PGP 2.0が出た週の最初の会合、午後の「暗号ゲーム」、ジョン・ギルモアの申し出。
1992年5月、メイとエリック・ヒューズは3日間話し合った。学会の暗号が動くコードになる歩みの遅さと、デジタル現金やミックスを実際に動かすという狙いについてである。
サイファーパンクがPGPに惹かれる理由をメイが書く。1992年9月の最初の会合はPGP 2.0の公開と数日のうちに重なり、PGPは趣味の人にも使える実用の道具だった。
PGP 2.0は、1992年9月にオークランドで開かれたサイファーパンクの最初の会合と同じ週に届いた。クリッパーの発表のわずか6か月前だった。