
シリコンバレーのシグナス・サポートは、フリーソフトウェアの利用者を支援して稼ぐ会社だった。発足して間もないある土曜日、その小さな会議室で、午後1時からの会合が3時近くになるまで始まらなかった。1993年に『Wired』でこの場面を描いたスティーブン・レヴィは、机を囲む者、部屋を歩き回る者、床に寝転ぶ者を合わせて15人ほどと数えている。そのうち2人は、AT&Tの新しい「安全な」電話をなかなか動かせずに午後の一部を費やした。この集まりは、自分たちをサイファーパンクと呼んでいた。
憲章はなかった。ティモシー・メイは後にこのグループのために書いたFAQで、「正式な規則や憲章は」という項目に、自分で「正式な規則も憲章もない。合意された使命もない」と書いている。あったのはメーリングリストだった。2008年のビットコインのホワイトペーパーが引く設計のうち二つは、最初にここへ投稿された。
始まり(1992年)
1992年5月、メイとエリック・ヒューズは3日間、ほとんど休まずに一つのことを話し続けた。学術的な暗号の会議で発表されたデジタルキャッシュやチャウムのミックスといった発想が、発表から何年たっても、動くコードにほとんどなっていないことである。ヒューズは集まりを開くことに決めた。最初の会合はその年の9月、オークランドで開かれ、ちょうどPGP 2.0が出た週だった。メイによれば、午前は基礎の話にあて、午後は匿名リメーラー、デジタルマネー、情報の売買を題材にした「Crypto Game」で遊んだ。メイはその年の11月に暗号無政府主義者宣言をリストへ投稿したとき、この発足の会合で読み上げた文章だと添えている。書いたのは1988年である。
ジョン・ギルモアは、自分のマシンであるtoad.comをメーリングリストのために、自分の会社の事務所を毎月の会合のために提供した。リストはほぼすぐに始まり、残っているアーカイブの最初のメッセージは1992年9月21日付である。名前は、当時『Mondo 2000』の編集者だった「セント・ジュード」ことジュード・ミルホンが、最初期の会合で「あなたたちはただのサイファーパンクの集まりね」と言ったことから付き、すぐに定着した。メイは参加者を「500〜700人ほど」とし、購読者はおよそ500人で横ばいになったと書いている。
最初に作ったのはリメーラー
リストが最初に作ったのは、差出人のないメールを送る仕組みだった。アーカイブの最初のメッセージから3日後の1992年9月24日、「Mr. Crypto」とだけ署名した匿名のアドレスから、「エリックの格安リメール・サービス」の案内が届いた。ヒューズのアドレスに、宛先を書いたRequest-Remailing-Toという行を付けて送れば、見出しの行を取り除いて転送するという内容である。翌日ヒューズは、リメーラーからリメーラーへ次々に中継できる版のPerlのコードを投稿し、「今朝書いた」と添えた。リメーラーはメッセージから差出人を取り除いて転送する。いくつも数珠つなぎにすれば、どの運営者も送り手と受け手を結びつけられない。メイがハッカーズ・カンファレンスから報告したところでは、11月にはハル・フィニーがPGPを組み込んだ版を動かしていた。メイは初期のリメーラーを、匿名の転送を最初に提案したデビッド・チャウムの1981年の「デジタル・ミックス」の「手早く、不完全ながらの実装」と呼んでいる。
1993年3月のヒューズのサイファーパンク宣言は、この習慣を「サイファーパンクはコードを書く」という一行にした。メイのFAQはこれをもっと控えめに、「命令ではなく、立場をはっきりさせるための言葉」と読み、「本格的なコードを書いているのは、おそらくリストの1割にも満たない」と見積もっている。その少数がリストに投稿し、その後どこへ行ったかを並べると次のようになる。
発足から半年でClipper
1993年4月16日、ホワイトハウスはClipperチップを発表した。政府が設計した暗号チップで、その鍵は司法長官が設ける二つの「鍵預託」データベースに分けて預けられ、法的な権限を持つ当局者が盗聴のために引き出せる。ギルモアは同じ日に、報道官の声明をリストへ転送した。メイは後に、グループができたのは「Clipperの発表が公開鍵暗号への関心に火をつける、ちょうど半年前」だったと書き、FAQでは「Clipperという爆弾に時間の多くを取られ、政策にもいくらか影響を与えた」と振り返っている。暗号を動くコードにするために始まったリストは、7か月目から、誰が鍵を持ってよいのかをめぐる争いの場にもなった。
1997年、リストは誰のものか
1997年1月5日、ギルモアは、サンディ・サンドファートが1か月の試験としてリストを部分的にモデレートし、toad.comは現在の購読者をモデレートされた版へ移すと告げた。メイは、本人によれば、この決定を「読んでから1時間以内に」購読をやめている。2月2日にその理由を書き、ギルモアが自分のマシンの規則を自由に決めてよいことは認めたうえで、争いの核心を突いた。「サイファーパンクのメーリングリストを物理的に置いている場所は、『サイファーパンク』そのものと同じなのか」。
ギルモアは2月11日に答えた。「もうサイファーパンクのリストを引き受けるつもりはない、という結論に達した」。リストには、新しい置き場所を見つけるまで10日しか残されていなかった。同じ日、ステン・ドレッシャーは、ジム・チョートと「サイファーパンクのメーリングリストを載せるmajordomoのネットワーク」を立ち上げていると告げた。2月12日には、Mixmasterの作者ランス・コットレルがcypherpunks@cyberpass.netを開設し、「どの一か所もリストを検閲できない、複数ノードのリストという形」を支持すると書いた。その21か月後、ウェイ・ダイはb-moneyの告知をcypherpunks@cyberpass.netへ送っている。
ビットコインに届いたもの
2008年10月31日に投稿されたビットコインのホワイトペーパーは、最初の参考文献にb-moneyを、6番目にHashcashを挙げている。どちらもこのリストで発表されたものだ。ホワイトペーパーそのものは、このリストには投稿されなかった。サトシ・ナカモトはそれを暗号学メーリングリストに投稿し、その年の8月にはバックに「b-moneyのページは知らなかった」と書いている。リストに姿の見えないサトシが、どうやってサイファーパンクと同じ立場にたどり着いたのかは独立到達の分析が、リストの設計のうちビットコインが実際に何を使ったのかは設計の系譜の分析が扱っている。同じ議論にハイエクの側から届いた経済思想の流れは、ハイエクとエクストロピアンの系譜にある。
1997年のメイの疑問は、サイファーパンクとはマシンの持ち主のことなのか、というものだった。リストは、持ち主を一人に決めるのをやめることで答え、b-moneyはその仕組みに乗って送り出された。二つの宣言よりも、これがこのグループのいちばんサイファーパンクらしい行いだったと私は思う。どの一か所でも止められないように、自分たちのリストを作り直したのだから。その11年後、リストに姿の見えない誰かが、同じことをお金について問うた。












