ビットコイン・インスティテュート

コードが​兵器だったころ — PGP、​フロッピー、​ハッシュ関数と​米国の​輸出規制​(1991〜2000年)

定義: PGP (23)

濃紺の背景の図。左に輸出してよいとされた開いた本、右に第XIII類の軍需品とされたフロッピーディスクがあり、「同じソースコード」の線でつながっている。その下に、PerlのRSAを刷ったTシャツ、Snuffleのハッシュの記号、PGPの捜査を表す虫眼鏡と書類の三つの小さな枠が並び、1991年から2000年までの年表の1996年に、暗号が軍需品リストを外れた印がある。

1994年の初め、米国務省は、強い暗号のソースコードをそっくり載せたブルース・シュナイアーの本『Applied Cryptography』を、自由に国外へ出してよいと判断した。同じソースコードを入れたフロッピーディスクについて、フィル・カーンが受け取った判断は、「米国軍需品リストの第XIII類(b)(1)の防衛物品」だった。カーンはこうまとめている。政府は前から「Cのコードを書けるのはアメリカ人(とたぶん数人のカナダ人)だけ」と思っていたが、「どうやら外国人はタイプもできないと決めたらしい!」。1996年の暮れまで、米国は暗号のソフトを兵器と同じように扱っていた。

刑事の捜査(1991〜1996年)

フィル・ジマーマンは、1991年にPGPを無料で出したのは上院法案266号のためだったと書いている。「1991年の包括的な犯罪対策法案」で、「不穏な条項が埋め込まれていた」。安全な通信機器の作り手に、製品に「裏口」を設けさせかねない決議である。PGPはその年の6月にUSENETに投稿され、そこから国外へ広がった。

1994年11月、PGPのソースコードを印刷した本に寄せた前書きで、ジマーマンははっきり書いている。「私は、PGPが国外に広まったことで刑事の捜査を受けている。政府は、それが米国の輸出規制に反すると見ている」。図書館で誰でも手に取れる本の輸出を禁じるのは、政府には「政治的に難しい」とジマーマンは見ており、国務省はシュナイアーの本の輸出をすでに認めていた。そこでソースコードは「OCRで読み込める」本にし、同じ判断を申請した。あとから足された脚注は、PGP 2.0を手伝ったもう一人のボランティア、ハル・フィニーの名を挙げ、1994年に書かなかったのは「安全ではなかったからだ。ハルは米国に住んでいて、米国の検察の手がすぐ届くところにいた」と説明している。

1996年1月11日、ジマーマンはサイファーパンクのメーリングリストに、連邦検事局から、自分が「1991年6月に暗号のプログラムPretty Good PrivacyをUSENETに投稿したことに関して、訴追されない。捜査は終わった」という書簡が届いたと伝えた。PGPで署名した知らせに、こう書いている。「この成り行きをどう感じているか、メールという手段では言い表せない」。弁護士のフィリップ・デュボアは、ニュースリリースにこう添えた。「暗号のソフトを輸出するのがもう合法になったと、誰も考えてはならない。合法ではない」。

Tシャツと署名(1995年)

メーリングリストは規則に冗談で応えた。冗談は、そのまま規則を試すことでもあった。1995年3月9日、アダム・バックは、メールの署名に収まるほど短い数行のPerlでRSAを書いて投稿し、どんどん短くなる版の一覧を付け続けた。3行の版はTシャツになった。売ったドン・ヘンソンは、1995年8月の投稿で冗談の中身を説明している。規則のもとでは、「米国・カナダの市民でない人に見える所で軍需品Tシャツを着れば、たとえ米国の中でも、暗号の資料(米国の外ではすでに自由に手に入るもの)を輸出したことになり、米国政府の目には犯罪者になる」。その時点で500枚を超えて送っていた。1997年のバックのHashcashの告知にも、「あなたは今日、RSAを輸出したか?」の一行の下に、このPerlが付いていた。

フロッピーディスク(1994〜2000年)

カーンは1994年の初め、国務省に二つの管轄の判断の申請を出した。シュナイアーの本を選んだのは、広く手に入り、IDEAやDESのような暗号のソースコードがたっぷり載っていたからだ。判断は本とディスクを分け、カーンはその区別を政府の三つの部門すべてに持ち込んだ。国務省と商務省から、連邦の裁判所、議会の二つの公聴会までである。裁判では勝たなかった。2000年1月14日、新しい輸出の規則で、公開された暗号のソースコードは「事実上、自由に輸出できる」ようになり、カーンは訴えを、争う意味がなくなったものとして却下させた。「実際のところ、望んだものはすべて手に入れた」。

ハッシュ関数(1995〜1999年)

ダニエル・バーンスタインは、規則の言葉そのもので規則を突いた。バークレーの博士課程にいたころに作ったSnuffleは、第9巡回区控訴裁判所の言葉では「一方向のハッシュ関数に基づく、遅れのない、共通鍵のストリーム暗号器」で、バーンスタインはそれを論文とソースコードの形で書いた。規則は暗号を縛っていたが、一方向のハッシュ関数は縛っていなかった。すでに公開されているハッシュ関数のどれからでも暗号の仕組みはたやすく作れると考えたバーンスタインは、この線引きをばかげていると見た。Snuffleは、それを示すための仕組みだった。ソースコードにはハッシュ関数そのものが入っておらず、判決によれば、それだけでは暗号化がまったくできなかった。発表するのに許可が要るかを尋ねると、国務省はSnuffleを軍需品だと答えた。バーンスタインは訴えた。1999年5月6日、第9巡回区控訴裁判所は、そのころには商務省のものになっていた輸出の規則が「修正第1条に反する、言論の事前の抑制にあたる」と判断し、「詮索の目から自分の事柄を守る力が、これほど弱まったことはない」と書いた。

軍需品リストの外へ(1996年)

1996年11月15日、クリントン大統領は、軍需品リストの第XIII類にある暗号の品を、軍用に作ったものを除いて「商務省の管理品目リストへ移す」と指示し、そこで管理するための大統領令13026号に署名した。移管は、1996年12月30日の商務省の暫定規則で効力を持った。その日から、ふつうの暗号のソフトは兵器ではなくなった。それでも、輸出管理規則のもとで輸出を縛られる品であることは変わらなかった。

1991上院法案266号そしてPGPがUSENETに (6月)1994カーンの申請 本は自由フロッピーは軍需品ジマーマンの前書き刑事の捜査を受けている(11月)1995バックのPerlのRSA署名として (3月9日)軍需品Tシャツ500枚超を発送 (8月)1996ジマーマンの捜査が終わる(1月11日)クリントンが暗号を商務省へ移す(11月15日)移管が効力を持つ(12月30日)1999第9巡回区がバーンスタインの勝訴(5月6日)2000新しい輸出の規則カーンが訴えを取り下げ(1月14日)コードが兵器だったころ

ジマーマンは、1999年に改めた『Why I Wrote PGP』を、こう結んでいる。「長い闘いだったが、少なくとも米国の輸出規制については、ついに勝った」。2009年1月にビットコインのソースコードがSourceForgeに置かれたとき、公開された暗号のソースコードは、カーンの言葉でいえば事実上自由に輸出できるようになって、9年がたっていた。その扉を開けたのは、政策の論文ではなかった。フロッピーディスクと、ハッシュ関数と、Tシャツだった。どれも、一つの規則に、ばかげたことを人前で言わせるために作られていた。私は、これをこの闘いでいちばん鋭い道具と見る。