ビットコイン・インスティテュート

エリック・ヒューズ

「サイファーパンクはコードを書く」を標語にしたメーリングリストの創設者

人物

濃紺を背景にした図解。差出人を記した三通の封筒が、匿名リメーラーと記された四つの中継ノードを順に通り、そのたびに差出人の表示が薄れて消えていく。金色の巻物に「Cypherpunks write code.」と書かれ、そこからコードの括弧記号のアイコンが並ぶネットワークへ線が伸びる。下部には1992年・1993年・2012年を示す横向きの年表がある。

宣言の末尾には、大学のメールアドレスと日付が添えられている。Eric Hughes、hughes@soda.berkeley.edu、1993年3月9日。そのなかに、論証ではなく指示として書かれた短い一文がある。「サイファーパンクはコードを書く」。15年後、サイファーパンクスがメーリングリストの発足以来語り続けてきた電子現金は、実際に動くコードになった。書いたのは、ヒューズが運営したそのリストに加わった形跡を、残っているどの記録にも残していない人物だった。

リメーラーとDigiCash(1992年)

ヒューズは数学者で、1992年11月の時点ですでにデビッド・チャウムのDigiCashで短期間働いていた。ブラインド署名を、銀行が発行する匿名の通貨に仕立てようとしていた会社である。同じ年の秋、ヒューズはティモシー・メイと、のちにサイファーパンクスと呼ばれる集まりの最初の会合を開いた。三人目の創設者はジョン・ギルモアである。スティーブン・レヴィが1993年にWiredに書いた記事は、メイを集団の理論家、ヒューズを会合の司会役と紹介している。議題は、進行中の開発の報告と、政治の最前線からの報告を織り交ぜたものだった。

ヒューズが会合に持ち込んだのは、動くソフトウェアだった。1992年11月6〜8日にレイク・タホで開かれたハッカーズ・カンファレンス(Hackers 8.0)についての報告で、メイは、ヒューズが「Perlで実装され、すでに稼働している匿名リメーラー」を説明したと書いている。ハル・フィニーがPGPを組み込んだ版も、あわせて紹介された。リメーラーは、メッセージから差出人を取り除いて転送する。いくつも数珠つなぎにすれば、どの運営者も送り手と受け手を結びつけられない。この発想はリストの上で長く生き、のちにレン・サッサマンが開発を率いたMixmasterも、その系譜に連なる。

1992ティモシー・メイ、ジョン・ギルモアとサイファーパンクスを共同創設(秋)Perl 製の匿名リメーラーが稼働(11月)1993『サイファーパンク宣言』を発表(3月9日)覆面姿で Wired の表紙に登場(5/6月号)1997アダム・バックがメーリングリストでHashcash を発表(3月28日)1998ウェイ・ダイがメーリングリストでb-money を発表(11月27日)2012アムステルダムのクリプトパーティーで基調講演(9月27日)

『サイファーパンク宣言』(1993年)

宣言は短く、秘匿を説く文書ではない。冒頭に置かれた区別が、残りの全文を支えている。

「プライバシーは秘匿ではない。私事とは、全世界に知られたくない事柄を指す。一方、秘密とは誰にも知られたくない事柄である。プライバシーとは、自分を選んで世界に明かす力である」

そこから話は現金へ移る。店で雑誌を買って店員に現金を渡すとき、「私が誰であるかを知る必要はない」とヒューズは書いた。だから開かれた社会には匿名の取引の仕組みが要り、「これまでは現金がその主な仕組みだった」。そして宣言は、サイファーパンクが何を信じるかから、何をするかへと向きを変える。

「サイファーパンクはコードを書く。プライバシーを守るためのソフトウェアを誰かが書かねばならず、我々全員が書かなければそれは得られない以上、我々が書く。我々はコードを公開し、仲間のサイファーパンクが習練し戯れられるようにする。我々のコードは世界中、誰でも自由に使える」

同じ段落は、いま読むと仕様書のような二文で終わる。「ソフトウェアは破壊できず、広く分散したシステムは止められないことを我々は知っている」。その春、Wiredは創刊第2号の表紙に覆面のサイファーパンク三人を載せ、ヒューズもその一人だった。翌年、レヴィはヒューズを、ただ「サイファーパンク・メーリングリストの創設者」と紹介している。

貢献年その後
Perl製の匿名リメーラー1992年Mixmasterなど後の設計へ系譜が続く
サイファーパンクス・メーリングリスト1992年Hashcash(1997年)とb-money(1998年)が最初に発表された場
『サイファーパンク宣言』1993年メイの1988年の宣言と並び、運動の創始文書として読まれる

メーリングリストのその後

ヒューズが創設したメーリングリストには、のちにビットコインのホワイトペーパーが参考文献に挙げる二つの提案が流れた。アダム・バックは1997年3月にそこでHashcashを発表し、ウェイ・ダイは1998年11月にb-moneyを投稿した。ホワイトペーパーの参考文献にヒューズの名も宣言もなく、サトシ・ナカモトは2008年8月、b-moneyをまったく知らなかったとバックに書き送っている。この空白をめぐるアーカイブ自身の読解は、サトシの記録に残る実践を、主にヒューズの文章から引いた六つの原則と突き合わせ、ほぼ一対一で重なることを示している。宣言がサトシに届いた経路は、どこにも見えない。

2012年のヒューズは、世界がついてくることに以前ほど確信を持っていなかった。その年の9月、アムステルダムのクリプトパーティーにSkypeでつないだヒューズは、Der Spiegelの報道によれば、人々は当たり前のようにはメールを暗号化しないし、格好いいからという理由で暗号化を始める人はいない、と語った。やるべきことは、暗号化をついでに運んでくれる良いアプリケーションを作ることだ、と。

歴史的意義

ヒューズがビットコインに残したのは、部品ではない。仕事の順序である。まず作り、誰でも動かせるように公開し、誰か一人の承認より長く生き延びる仕組みにする。サトシはその順序をそのままなぞった。論文より先にコードを書き、自由なライセンスで、誰でも読めるメーリングリストに出した。ヒューズから受け取ったという記録は、どこにもない。私はそこに、この宣言の本当の勝ちを見る。教わらなければ守られない規則は、仲間内の規則にすぎない。見知らぬ誰かが同じ課題に一人で取り組み、同じ場所にたどり着いたのなら、その規則は最初から課題そのものを言い当てていたのだ。

関連エントリー

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分析

サイファーパンク — ビットコインの部品が最初に投稿された場所

Bitcoin Institute ↔ ティモシー・メイ, エリック・ヒューズ, ハル・フィニー, アダム・バック, ウェイ・ダイ, デビッド・チャウム, レン・サッサマン, サトシ・ナカモト

1992年オークランドの会合から始まったサイファーパンクのメーリングリスト。命名、匿名リメーラー、Clipperとの対立、1997年の分裂、ホワイトペーパーが引くHashcashとb-moneyまで。

分析

サトシ・ナカモトはサイファーパンクではなかった — 中核思想に独立到達

Bitcoin Institute ↔ サトシ・ナカモト, アダム・バック, ウェイ・ダイ, エリック・ヒューズ, ティモシー・メイ, ハル・フィニー, ニック・サボ

サトシとサイファーパンクの関係を3つの一次資料観察から読む: b-moneyを知らなかった本人自認、ウェイ・ダイの「以前から積極的でない」推測、ヒューズ1993マニフェストとの密な整合。