
1995年2月8日、フィンランドの警察が令状を持って、ヨハン・ヘルシンギウスのもとに来た。ヘルシンギウスは、世界でいちばん知られた匿名のリメーラー、anon.penet.fiを動かしていた。警察が求めたのは、番号のついたアカウントの一つの、本当のアドレスだった。ヘルシンギウスは、20万件のデータベースを丸ごと渡すことは避け、その一つだけを渡した。本人の話では、1時間のうちに、その名前は、求めていたサイエントロジー教会に伝わったと告げられた。
それから16年のうちに、ファイル共有の索引、プライバシーのネットワーク、金の通貨、銀の通貨が、同じような終わり方をした。どれにも、令状、差し止め、捜索、あるいは経営の判断が届く場所があり、どれもそこで止められた。2008年11月、サトシ・ナカモトはこの型を言い当てたとき、そのうちの一つの名を挙げている。
名前の一覧(1993〜1996年)
ヘルシンギウスがリメーラーを始めたのは1993年で、きっかけは、ネットに書くことに実名を結びつけさせるべきかをめぐる、フィンランドのニュースグループでの言い争いだった。リメーラーにメールを送れば、anxxxxx@anon.penet.fiという形のアドレスがもらえ、そのアドレスで投稿し、返事もそこで受け取れた。返事を届けるために、サーバーは、番号と本当のアドレスを結ぶ一覧を持っていなければならなかった。利用者すべての匿名が、その一つの一覧に懸かっていた。
教会が目を向けたのは1995年1月だった。教会の弁護士は、教会の文書が投稿されていたalt.religion.scientologyに、リメーラーから書き込めないようにするよう求めた。ヘルシンギウスは、投稿を見張るのは無理だと答えた。2月2日、教会の代理人が、あるアドレスの持ち主を明かすよう求めてきた。ヘルシンギウスは断り、その6日後に警察が来た。
1996年8月22日、ヘルシンキの地裁は、警察の求めるアドレスを、取り調べに呼ばれてから30日のうちに明かすようヘルシンギウスに命じた。拒めば罰金を重ねて科され、最後は6か月以下の拘禁になる。その8日後、ヘルシンギウスはリメーラーを閉じた。プレスリリースは利用者を「50万人を超える」と数え、理由をこう書いた。「フィンランドでは、インターネット全体にかかわる法律の問題がまだ定まっていない」。
索引(1999〜2001年)
1999年6月に始まったNapsterは、誰の音楽も預かっていなかった。預かっていたのは一覧だった。利用者がログインすると、ディスクにあるMP3ファイルの名前がNapsterのサーバーに送られ、第9巡回区控訴裁判所の言う「共同のディレクトリー」に加わった。検索はサーバーの「検索索引」に対して行われ、サーバーは、ファイルを持つコンピューターのインターネットのアドレスを伝えた。2001年2月12日の判決で、裁判所は、Napsterが「検索索引に載った侵害の素材を見つけ出す力と、利用者がシステムに入るのを打ち切る権利を持っている」と認めた。利用はその月に2640万人で頂点に達した。2001年7月の初め、差し止めのもとで、Napsterはネットワーク全体を止めた。
その前の年の2000年3月14日、AOLの子会社Nullsoftのプログラマーたちが、Gnutellaを公開していた。同じことをするオープンソースのプログラムで、ネットワーク全体が頼るサーバーを持たず、どれか一つの点を止めても止まらない仕組みだった。AOLのWinampの部門はこれを「許可のない、勝手な副業」と呼び、サイトは数時間のうちに消えた。そのころには、サロンが伝えたとおり、プログラムは「すでに広く出回っていた」。
サーバー(1998〜2004年)
モントリオールのZero-Knowledge Systemsは、1998年にFreedomネットワークを発表した。利用者は年に約50ドルを払い、自分の通信を会社の暗号化されたサーバーに通した。2001年10月22日、このネットワークは止まった。裁判所は関わっていない。会社はこれを「純粋に経営上の判断」と呼んだ。購読は落ち込んでおり、サーバーは会社が止められるものだった。
ZKSで匿名性の設計に取り組んだアダム・バックは、のちに「ToRは、ZKSのFreedomネットワークを作り直したもの」と書いている。2004年のTorの設計の論文は、違いを自分の言葉で書いている。一段だけのプロキシは、通信を「この一点」に集め、「敵がプロキシに出入りするすべての通信を見られるなら」弱い。Torのように、ボランティアが支えるネットワークで回路を組む設計では、回路がいくつものサーバーをまたぎ、「どの一つのサーバーも、利用者を通信の相手と結びつけられない」。それでもTorは、どのルーターがあるかを利用者に知らせるため、信頼の置かれたディレクトリーサーバーを少しだけ残していた。
金と銀(1996〜2011年)
腫瘍内科医だったダグラス・ジャクソンは、1996年の初めに、夜な夜なe-goldのコードを書き始め、4か月後に公開した。会社が金地金で全額を裏づけていると説明する、口座の通貨である。2005年には、165か国に約350万の口座があった。2007年4月24日、連邦の大陪審は、会社と関連会社のGold & Silver Reserve、3人の取締役を起訴した。2008年7月21日、二つの会社は、資金洗浄の共謀と、免許のない送金業を営む共謀について有罪を認め、ジャクソンは、資金洗浄の共謀と、免許のない送金業を営んだことについて有罪を認めた。司法省の主張は、e-goldが送金業者として届け出なかったために、犯罪者が「実質的に匿名で」使えた、というものだった。その年の11月、ジャクソンは3年の監督付き釈放を言い渡され、そのうち6か月は自宅での拘禁だった。
サトシは、e-goldの仕組みをスパムの側から見ていた。2009年1月のメールでは、e-gold系のシステムの一つに、すでに「ダスティング」と呼ばれるスパムがあると書いている。スパマーが、取引のコメント欄に文を載せるために、ごく少量の金(ゴールド)の塵を送り付けるのだ。2010年3月のBitcoinTalkでは、ある利用者がフォーラムに念を押した。e-goldの最大手の交換業者の一つ、「Goldageを潰したのは」州の送金業者ライセンスだった。
バーナード・フォン・ノートハウスは、1998年にリバティ・ダラーを作った。民間の造幣所が打つ銀のメダルと、団体が準備の銀で裏づけていると説明する紙の券である。2006年9月、米国造幣局は、これを流通する通貨として使うのは連邦の犯罪だと警告した。2007年11月14日の朝早く、連邦の捜査官たちが、インディアナ州エバンズビルの小さな商店街にある本部を捜索した。フォン・ノートハウスが客に送ったメールによれば、捜査官たちは、金、銀、プラチナと、届いたばかりのロン・ポール・ダラー2トン近く、すべての書類とすべてのコンピューターを持ち去り、銀行口座を凍結した。「資金はない。製品もない。何が注文され、何を借りているのかを知る記録さえない」。
2011年3月18日、ノースカロライナ州ステーツビルの陪審は、米国の硬貨に似た硬貨を作った罪と、米国に対する共謀の罪で、フォン・ノートハウスを有罪とした。評決を発表した連邦検事は、通貨を損なおうとする試みを「国内のテロの、ひとつの独特な形」と呼んだ。
一文(2008〜2009年)
ホワイトペーパーが出て6日後、書き手のわからない2行が、引用の形で届いた。「政治的問題の解決策を暗号学に求めても見つからないだろう」。サトシは「確かにそうだが、軍拡競争の大きな戦いには勝てるし、数年間は自由の新しい領域を手にできる」と答え、こう続けた。
サトシ・ナカモト(暗号学メーリングリストへの投稿、2008年11月6日20:15 UTC)政府は、Napsterのように中央で管理されるネットワークの首を切るのは得意だ。だが、GnutellaやTorのような純粋なP2Pネットワークは、持ちこたえているように見える。
3か月後、サトシは通貨も同じように読んだ。チャウムの仕組みについては「中央の会社が閉鎖されると、通貨も終わった」と書いた。1990年代から失敗してきた電子通貨の会社については、「それらのシステムを失敗に追いやったのは、中央で管理するという性質だけだった。そのことは明らかであってほしい」。
ここまでの記録はこの見立てを裏づける。直すところは一つで、首を切ったのが、いつも政府だったわけではない。Freedomを止めたのは政府ではなく、持ち主だった。それでもFreedomがこの一覧に入るのは、ほかと同じ理由による。止められる者がいた。名前の一覧も、索引も、会社のサーバーも、金庫も、どれも一つの場所で、止められたのはその場所だった。GnutellaはAOLの手を数時間で離れ、サトシ自身が挙げたTorも、ディレクトリーサーバーを残していた。ビットコインの設計は、この一覧を条件に書き直したものだ。誰かが止められる場所を、どこにも置かないという条件である。











