
合理主義フォーラムLessWrongに2009年10月5日公開された、 ハル・フィニーが2009年8月のALS診断について公的に発信した最初の文章。公開当時は冷凍保存・延命関連コミュニティで広く共有され、現在は主にフィニーのビットコイン伝記の中で読まれる。フィニーは2009年1月11日、 「Running bitcoin」というツイートでビットコインの2番目の運用者として名乗りを上げ、翌1月12日にはサトシ・ナカモトから初めてビットコインを受け取った既知の人物となった。このエッセイは、その同じ人物が今度は想像しうる限り最も緩慢な死刑判決を受けた患者でもあるという、フィニーの個人的文脈を記録している。
エッセイの主張。フィニーは自分の余命についてのブラックジョークで始め、そこから真剣な話に転じる:
ハル・フィニーからの引用(2009年10月5日)私はALS、筋萎縮性側索硬化症を患っている。ルー・ゲーリック病としても知られている。ALSは随意筋運動を制御する運動ニューロンを破壊する。予後は進行性の筋力低下と麻痺で、通常2年から5年で、一般的に呼吸不全により死に至るんだ。
エッセイは続いてフィニーの残りの人生を形作る二つの具体的主張を行う。第一、ALSは高次認知を無傷で残す。「体が外側で死んでいく間も、内側では生き続けるんだ」。第二、呼吸不全が訪れたときに人工呼吸器を選ぶことは、ALS患者の90% 超が拒否するにもかかわらず合理的だ:
ハル・フィニーからの引用(2009年10月5日)私は時が来たら人工呼吸器をつけるつもりだよ。動けない体からでも、コードを書くことさえできるかもしれない。動けない体からでも、オープンソースに貢献したいんだ。それは十分に生きる価値のある人生だと思う。
この第二の決意が要石だ。エッセイは別れの挨拶ではなく、貢献継続の意思表明である。
守られた約束。フィニーは病気を通してコードを書き続けた。筋肉制御が低下するにつれ、視線入力で以前のタイピング速度の約50分の1でビットコインウォレットを開発した。
既に身体を動かせなくなった時期に書かれた「Bitcoin and Me」 (2013年) は、システム最初期の数週間にフィニーとサトシが共に行ったビットコイン作業を記録し、フィニーが公に書いた最後のもののひとつである。2013年の投稿は、タイトルも感情の起伏も、2009年「Dying Outside」が敷いた軌跡を引き継いでいる。二つの投稿の間の4年間は、ビットコイン開発者がALSを患いながら続けたオープンソース貢献として、公に記録されている中で最長である。
冷凍保存の枠組み。フィニーは冷凍保存コミュニティの長年のメンバーだった (診断の数十年前にアルコー延命財団に登録済み)。「Dying Outside」エッセイが快楽の設定値と延命介入の合理性を強調するのは、LessWrongが属する、合理主義と冷凍保存を併せ持つ知的環境との対話である。妻フランも後に、 彼はただ世界がどうなるのかを見たかったのだと振り返っている。
2014年8月28日にフィニーが逝去した時、遺体は本人の長年の意思通りアルコーで冷凍保存され、フィニーは冷凍保存に身を捧げた最も著名なビットコイン人物となり、ビットコイン最初期のネットワーク参加者を、初期ビットコインの貢献者が何人も生まれた、合理主義と冷凍保存を併せ持つサブカルチャーと結びつけた。
ビットコイン記録における位置。エッセイは、フィニーのビットコイン参加を特徴づける、フィニーの数少ない公的著作のひとつだ。2013年「Bitcoin and Me」回顧、2019年RPOW再評価 (それ以前の再利用可能プルーフ・オブ・ワークシステムへの言及)、2020年CoinDeskが公開した未刊のフィニー=サトシ往復メールと並んで、サトシ本人を除くビットコイン最初期の既知のネットワーク参加者の公的記録を支える四つの文書のひとつである。2009年10月のエッセイは四つの中で最も早く、続く5年間のフィニーの貢献継続がここで暗黙に宣言されている。










