
2011年初頭、プログラマでIRC文化に熱心だった ステファン・トーマスは、ビットコイン解説アニメ動画『What is Bitcoin?』を制作した報酬として、初期ビットコイン利用者からおよそ7,002 BTCを受け取った。そのウォレットの秘密鍵を、トーマスはIronKey暗号化USBドライブに保管した。IronKeyは法人向けの高保証鍵保管デバイスで、 パスワードを連続10回間違えるとデバイス内蔵のコントローラが保護領域を自動消去する性質を持つ。一度消去されれば、中身は暗号学的に取り戻せない。
トーマスはIronKeyのマスターパスワードを紙に書き留めた。その紙を、後年なくした。
2021年NYTによる公表。2021年1月12日、ニューヨーク・タイムズの記者ナサニエル・ポッパーが「失われたパスワードが百万長者をビットコインの財産から締め出している」と題する記事でトーマスの状況を取り上げた。その時点でトーマスは10回の試行のうち8回を使い切っていた。残り2回。当時のBTC価格は3万3,000ドル前後で、ロックされた資産の時価はおよそ2億2,000万ドル超。その後のBTC高騰でこの数字は数億ドル、時期によっては7億ドル超にまで膨らんだ。
トーマス本人の職業上の立場。ロックアウト期間を通じて、トーマスは暗号通貨エンジニアリングの世界で活動を続けている。リップル・ラボの初期エンジニアとして2018年までCTOを務め、後にマイクロペイメント / ウェブ収益化のスタートアップCoilを創業した。IronKeyの件が彼のキャリアを傷つけたわけではない。本人の語り口でも、これは金銭的危機ではなく個人的な人生上の出来事として位置づけられている。
復旧の公開提案。2023年後半、サイバーセキュリティ企業のUncipheredがトーマスのIronKeyと同系列モデルを解読する手法を編み出したとWIREDを通じて公表し、復旧を申し出た。WIREDの2023年10月の記事によれば、トーマスは共通の知人を通じた電話で丁寧に断った。1年前に別の2つの解読チームと「握手の取り決め」を交わしており、ほかを入れる前に両チームにもっと時間を与えたい、という理由だった。2026年中盤の時点でも、復旧成功を伝える公開報告はない。Trakxは、彼が心の平穏のためにIronKeyを安全な場所にしまい、過去のこととすると決めたと伝えている。
この話が語り継がれる理由。トーマスの件は、 ビットコインの不可逆性を具体的に示す事例として頻繁に引用される。復旧代理人もいない、サポートによるリセットもない、秘密鍵が失われたUTXOを動かせる裁判所命令も存在しない。IronKeyは「保護対象を、正規所有者であっても明け渡さない」という法人向けセキュリティ設計をそのまま実行しているにすぎず、ビットコインのプロトコルも「未使用出力は秘密鍵にだけ不変に縛られる」というサトシの設計をそのまま実行しているにすぎない。結果として、きちんと働いた工学的システムが、およそ7,002 BTCを恒久的に手の届かない場所へ置いたことになる。
この物語はジェームズ・ハウエルズが廃棄したハードディスクやジェラルド・コットンの死去に伴うQuadrigaCX崩壊とあわせて「失われたビットコイン」のまとめ記事で登場することが多い。ただし3件は機構的にまったく別物 (パスワード忘却 / 物理廃棄 / 取引所の鍵管理崩壊)。 失われたビットコイン横断ページは、この3件を他の記録済み損失事例と並べて、根底にある不可逆性の論点と一緒に整理している。



